日本史

 

f:id:Alberuto0923:20210209221609p:plain

大日本帝国の国旗

f:id:Alberuto0923:20210209221708p:plain

昭和天皇

日布合邦

カラウエア国王の来日

 1879年に布哇王国のカラカウア国王が世界一周旅行の最初の訪問先として選んだ大日本帝国に到着。同日には、カラカウア国王が明治天皇に謁見した。その際にカラウエア国王からいくつかの提案が成された。以下にそれを記す。

  • 日本と布哇の連邦化
  • 日本と布哇間の海底ケーブルの敷設
  • 日本主導による亜細亜共同体の創設
  • 東伏見宮依仁親王とカイウラニ王女の御縁談
  • 日本から布哇への移民

布哇王国と米国の関係

 この提案がカラウエア国王からされた背景として、布哇王国と米国の関係の悪化が挙げられる。1863年には、駐布米国公使のジェームズ・マックブライドが同国国務長官のウィリアム・スワードに宛てた報告書に「ハワイ諸島の為に過去40年に渡り親身を尽くし、文明を授けたというのに、イギリス人による支配を認める事はアメリカ人に対する不義である。」と記されているのが確認出来る。この様な関係悪化を鑑みて、1874年に布哇国王として即位したカラウエアは、同年中に米国を訪れて米布互恵条約を締結した。同条約の第四条に「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない。」との文章が存在している事から、布哇王国の米国との対立を極力避けようとしていた姿勢を見受けられる事が出来るだろう。 

f:id:Alberuto0923:20210209232232j:plain

ウィリアム・スワード米国国務長官

布哇壱月危機

 しかし、1873年にカラウエア国王の先代の国王であり、親米派だったルリナロ国王が即位した事で、米国の影響が拡大する事を恐れた王党派によるデモが布哇諸島で多発した。その中で最も大きいデモは、王党派が馬浦伊島を一時占拠等をした事で有名な、馬浦伊占領事件が挙げられる。これら一連の流れは、布哇壱月危機と呼ばれた。最終的にルリナロ国王が退位することで、ある程度迄は収束する事に成功した。収束後、王党派が議会においてサンフォード・ドールやロリン・A・サーストンら共和派の死刑を求刑したが、ルリナロ国王に代わって即位したカラウエア国王は恩赦を認め、国外追放に留めた。

f:id:Alberuto0923:20210210181345j:plain

サンフォード・ドール大統領

米国の対応

 布哇壱月危機の後、米国議会はハワイ併合派と拡大モンロー主義者で二分された。ハワイ併合派は、亡命したサンフォード・ドールやロリン・A・サーストンら共和派をハワイ共和国亡命政府に擁立。サンフォード・ドールはハワイ共和国亡命政府の大統領に就任した。拡大モンロー主義者は、大日本帝国との対立を恐れて「不干渉を貫くべきだ。」と主張した。この背景として、布哇壱月危機の際に布哇王国の王党派が内戦が起きた場合に備えて、大日本帝国の介入を要請していた旨の協定の存在を米国が知っていた事が挙げられる。実際に大日本帝国政府は、布哇壱月危機の混乱に乗じてサンフォード・ドールやロリン・A・サーストンら共和派のクーデターによる布哇共和国の成立を恐れ、邦人保護を理由に伊東祐亨が率いた甲鉄艦であった東艦や日進、他2隻を布哇王国に派遣し、花瑠瑠軍港に停泊させる事により共和派を威嚇させた。

f:id:Alberuto0923:20210212002929j:plain

東艦

 布哇壱月危機の収束後、拡大モンロー主義者であった米国のユリシーズ・グラント大統領が大日本帝国国賓として訪問した事により、日米の布哇における対立は一時的に収まった。しかし、ハワイ併合派は旧態依然として勢力を維持していた。また、英国や仏国も布哇王国の地政学的な重要度を鑑みて、影響力を拡大させようと努めた。

提案の受諾

 この様な背景があり、1879年に日布合邦ニ関スル条約が締結された。同年には、米国の共和党の全国委員長であるウィリアム・マッキンリーが『ハワイの重要性と仮想敵国』を出版し、世論を大きく傾ける契機を作る事となった。

 翌年には、明治天皇は布哇王国を訪れ、カラウエア国王から直々にカメハメハ勲章頸飾付大十字章を授与された。

 大日本帝国と布哇王国間の海底ケーブルは大北電信会社によって敷設された。

 日本主導による亜細亜共同体の創設は、その後に日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域である大東亜共栄圏の考え方の根本になった。また、興亜会の設立もあり、これを機に興亜論や亜細亜主義、大東亜運動等が活発化していく事となる。この時期の流行語として「大東亜が我が故郷」等が挙げられる。

 東伏見宮依仁親王とカイウラニ王女の御縁談は、発表後に日本国内で大きく意見が分かれる事となる。

 日本から布哇への移民については、日布渡航条約が締結される事で達成された。

三度の戦争

日清戦争

 1876年には、琉球の漂流民が台湾で殺された報復として、台湾出兵を行った。また、1879年には、沖縄県設置による事実上の琉球王国の併合が行われた。所変わって、朝鮮半島の朝鮮国では、清との冊封体制を脱局して近代化を進めようとする開化党と、清との冊封体制を維持して国家を保とうとする事大党が対立していた。そんな中で1882年に壬午軍乱、1884年に甲申政変が起き、日清関係は悪化の一途を辿っていた。1894年には、甲午農民戦争が起き全州市を占領する事態になった為、朝鮮国の高宗国王が清の光緒帝に鎮圧を要請した。

f:id:Alberuto0923:20210221223841p:plain

高宗国王

 鎮圧の目的で朝鮮国の支配権が清に移る事を危惧した大日本帝国は、甲申政変の後に締結された天津条約に則り、清に出兵する旨を伝えた後、出兵を行った。朝鮮国では自国で戦争を行われる危機から、反乱を起こした農民らと全州和訳を結んだと言われている。結果的には、甲午農民戦争は収束する事に成功した。しかし、朝鮮国での影響力を拡大したい相手国の牽制等を目的に、いつまで経っても日清の二ヵ国は撤兵をする事は無かった。そこで、日本は朝鮮の独立援助と内政改革を共同で行う事を提案し、英国と仏国も清に対し調停案を出すものの、拒否。これに対し日英仏の三ヵ国は「朝鮮国の自主独立を侵害する清の撤退と朝鮮国の清との従属関係の解消」について、三日以内の回答の要求を行った。これは後に、朝鮮三国干渉と呼ばれる事となる。朝鮮三国干渉を受けて清は拒否、朝鮮国は「改革は自主的に行う」、「乱が収まったので、日清両軍の撤兵を要請」と回答した。回答を受け、日本は景福宮を占領。高宗国王を軟禁し、興宣大院君に政権を握らせた。その後、新政権に清の掃討を日本に依頼させ、豊島沖海戦と成歓の戦いを経て、清が駐北京日本講師である小村寿太郎に国交断絶を通告。その後、両国が宣戦布告をして、日清戦争が勃発した。

f:id:Alberuto0923:20210223123756p:plain

豊島沖海戦

f:id:Alberuto0923:20210223123847p:plain

成歓の戦い

 平壌の戦いが起こる前、大日本帝国と朝鮮国間で大日本大朝鮮領国盟約が締結され、日清戦争の期間ではあるが、朝鮮国が日本側に立つ事が義務付けられた。

日清講和条約と三国干渉

 その後は、黄海海戦や旅順口の戦い、威海衛の戦い等を経て、1895年に日清講和条約が締結された。これにより日本は戦勝国となるだけでは無く、有利な形での講和を結ぶ事が出来た。以下に条約の内容を記す。

  1. 清は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
  2. 清は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。
  3. 日清両国による、各二名以上の境界共同確定委員の任命を行う。
  4. 清は賠償金2億テールを日本に支払う。
  5. 割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。
  6. 清は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。日本国臣民は清の各開市・開港場において自由に製造業に従事することができる。また清は、日本に最恵国待遇を認める。
  7. 日本は3か月以内に清領土内の日本軍を引き揚げる。
  8. 清は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。
  9. 清にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。
  10. 条約批准の日から戦闘を停止する。
  11. 条約は大日本帝国皇帝および大清帝国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。

 日清講和条約の内容が明らかになると、露国の遼東半島の割譲への反発を発端とした、独露仏の三ヵ国による三国干渉が発生した。それぞれの思惑は以下の通りである。

  • 独国...露仏の接近の妨害、露国の注意を極東に向ける事、極東の野心
  • 露国...不凍港の獲得、満州における権益拡大
  • 仏国...露仏同盟の尊重

 三国干渉を受け、清との間に遼東還付条約を締結し、遼東半島を放棄する事を決定した。

日清戦争の年表
1894年
  • 3月 東学党、朝鮮全羅道で蜂起(その後甲午農民戦争に拡大)
  • 5月27日か28日 代理公使杉村濬より、朝鮮が「兵を支那に借り」る動きあり、と外務省に通報
  • 5月31日 朝鮮政府、清への援兵を決議。伊藤内閣、内閣弾劾上奏決議案が可決されて難局に直面
  • 6月1日 杉村、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたり」と打電
  • 6月2日 伊藤内閣、衆議院解散と清が朝鮮に出兵した場合に公使館・居留民保護のための朝鮮出兵とを閣議決定
  • 6月4日 清の北洋通商大臣李鴻章朝鮮出兵を指令
  • 6月5日 参謀本部内に大本営を設置(形式上戦時に移行)
  • 6月6日 天津条約に基づき、清が日本に朝鮮出兵を通告
  • 6月7日 日本も同条約に基づき、清に朝鮮出兵を通告
  • (以後、日清両軍が朝鮮に上陸するとともに、日清間と日朝間の交渉、さらにイギリスとロシアが日清間の紛争に介入)
  • 7月9日 清の総理衙門がイギリスの調停案を拒絶
  • 7月10日 駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省に届く。
  • 7月11日 伊藤内閣、清のイギリス調停案拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定
  • 7月16日 日英通商航海条約の調印(領事裁判権撤廃を達成)。清、軍機処などの合同会議で開戦自重を結論とし、18日に上奏
  • 7月20日 駐朝公使大鳥圭介、朝鮮政府に対して最後通牒(回答期限22日)
  • 7月23日 日本軍、朝鮮王宮を占領。国王高宗を手中にする。日本側の圧力により、大院君が国政総裁に就任
  • 7月25日 大院君、清との宗藩関係解消を宣言し、大鳥に牙山の清軍掃討を依頼。豊島沖海戦(高陞号事件)
  • 7月29日 牙山に向かった日本軍と清軍が交戦し、日本軍が勝利(成歓の戦い)
  • 8月1日 日清両国、互いに宣戦布告
  • 8月5日 大本営参謀本部内から宮中に移動
  • 9月13日 大本営、戦争指導のために広島移転(広島大本営
  • 9月15日 明治天皇、広島に入る。平壌攻略戦で日本軍が勝利
  • 9月17日 黄海海戦で日本艦隊が勝利。その結果、日本が制海権をほぼ掌握
  • 9月19日 李鴻章、持久戦(西洋列強の介入を期待)等を上奏
  • 10月24日 日本の第一軍が鴨緑江渡河を開始し、第二軍が遼東半島上陸を開始
  • 11月21日 第二軍、旅順口を占領。

1895年

  • 2月1日 広島で清との第一次講和会議(翌日、日本が委任状不備を理由に交渉拒絶)
  • 2月中旬 陸海軍共同の山東作戦完了。日本が制海権を完全に掌握
  • 3月上旬 第一軍、遼河平原作戦完了。日本が遼東半島全域を占領
  • 3月16日 直隷決戦に備え、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられる。
  • 3月19日 講和全権の李鴻章、門司到着(翌日から下関で交渉)
  • 3月24日 李鴻章、暴漢に狙撃される(日本、条件を緩和して講和を急ぐ)。
  • 3月30日 日清休戦条約の調印
  • 4月17日 日清講和条約の調印(5月8日、発効)
  • 4月23日 ロシア・フランス・ドイツ、清への遼東半島返還を要求(三国干渉)
  • 5月4日 伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定
  • 5月5日 日本がロシア・フランス・ドイツに遼東半島返還を伝える。
  • 5月29日 日本軍、割譲された台湾北部に上陸を開始
  • 5月30日 明治天皇、広島から東京に還幸
  • 6月17日 日本が台湾に台湾総督府を設置
  • 8月6日 台湾総督府条例により、台湾で軍政を敷く。
  • 10月8日 朝鮮で乙未事変閔妃暗殺事件)発生
  • 11月8日 清と遼東還付条約を締結
  • 11月18日 台湾総督、大本営に全島平定を報告

1896年

  • 2月 朝鮮で親露派のクーデターが成功し(露館播遷)、日本が政治的に大きく後退
  • 3月31日 台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行
  • 4月1日 大本営の解散

1900年

1906年

  • 大日本製糖の台湾進出

日露戦争

 三国干渉以降は、独露仏の三ヵ国に対する日本国内の世論の反発が多く見受けられた。特に、日本海を隔てて存在している露西亜帝国に対する反発は、その中でも最も大きかった。この様な世論もあって、日本政府は「臥薪嘗胆」をスローガンに、六六艦隊計画を難なく進める事が出来た。1900年には、清の秘密結社であった義和団が「扶清滅洋」、「興清滅洋」をスローガンとして、排外主義的な運動を展開し、清政府に対し反乱を起こした。清の実質的な権力を握っていた西太后は、反乱を鎮圧しようと努めたものの、鎮圧に失敗。そこで、この反乱を利用する事で、列強の影響力を国内から排除しようと画策した。その後、清は大日本帝国や英国、仏国、露国、米国、独国、伊国、墺洪国の八ヵ国に無謀にも宣戦布告。これには、義和団の圧力があった説や清が慢心していた説等、様々な説が存在しているものの、明確な理由は分かっていない。義和団の乱の鎮圧後、露国は引き続き満州に軍を置き続けた。これに対し英国は、極東における露国の権益拡大を恐れて、後に締結される日英同盟に繋がる事となる。1901年には、北京議定書が調印され、義和団の乱の後処理がなされた。満州に軍を置き続ける露国は、朝鮮半島にも影響を伸ばそうと画策し、これに日英の二ヵ国が警戒を強めた。当初では、伊藤博文井上馨らが露国との妥協の道を探っていたが、山形有朋や桂太郎西郷従道松方正義加藤高明らは露国との対立は避けられないと考え、1902年に第一次日英同盟が締結された。

f:id:Alberuto0923:20210227160232p:plain

批准書署名原本

 日英同盟の締結後の1903年には、日本は露国と妥協案である満韓交換論について議論した。しかし、積極的な主戦論者であった関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらや露西亜帝国海軍等は、妥協案に興味を示さなかった。また、当時の皇帝であったニコライ二世も露西亜満州軍総司令であったアレクセイ・クロパトキンも主戦論に同調した。日本側でも、独立状態が危機的な状況になりかねないと考え、国論が主戦論に傾いた。1904年には、日本の外務大臣であった小村寿太郎が、露国の特命全権公使であったロマン・ローゼンを外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露特命全権公使であった栗野慎一郎が、露国の外務大臣であったウラジミール・ラムスドルフに国交断絶を通知した。同年には、日本が露国に対し宣戦布告を行った。また、大韓帝国との間で日韓議定書を締結して、補給線の確保を容易とした。宣戦布告後、日本は露国の重要地点であった旅順港を封鎖しようとするも、これに失敗。しかし、鴨緑江会戦や南山の戦い、遼陽会戦で勝利。また、旅順攻囲戦では、乃木希典陸軍大将が率いる第三軍が、旅順要塞を陥落させる大戦果を挙げた。

f:id:Alberuto0923:20210302203535p:plain

乃木希典陸軍大将

 旅順攻囲戦の後、日露戦争における最後の大規模な会戦となる奉天会戦が行われた。これにも、日本が勝利。この結果を受け、日本の依頼を受けた米国大統領であったセオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、露国がこれを拒否した。奉天会戦の前には、露国で血の日曜日事件が発生した。この時に露国にいた明石元二郎陸軍大佐は、フィンランド憲法党の党首であったカストレーンやフィンランド革命党の党首であったシリヤスク、スウェーデンのアミノフ陸軍将校、ポーランド農民党の総裁であったドモフスキ、社会革命党の党員であったチャイコフスキーグルジア党、ポーランド社会党の左右両派等と接触し、露国の革命運動を後押しする。この行動が功を奏したのか、後にロシア第一革命が発生する事となり、露国の戦争継続能力は危ぶまれてくるのであった。しかし、奉天会戦で壊滅的な打撃を受けた日本においても、戦争継続能力は同様に低下している所だった。そんな中、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー海軍少将が率いる第二太平洋艦隊が日本近海に到着し、東郷平八郎海軍大将が率いる連合艦隊と衝突。ここに、日本海海戦が勃発した。

f:id:Alberuto0923:20210306160829p:plain

東郷平八郎海軍大将

 日本海海戦に勝利した日本は、日本海制海権が確定、露国は最後の砦であった第二太平洋艦隊が壊滅した事で、講和に向けて動き出した。

日露講和条約と日比谷焼打事件

 小村寿太郎外務大臣が高平小五郎駐米特命全権公使に訓電を発し、セオドア・ルーズベルト大統領に、直接かつ全然一己の発意による日露の二ヵ国間の講和を斡旋するように求めた。米国は、ここで仲介する事による将来的な中国の分割への参加を期待し、改めて要求を受諾した。開催地候補は様々であったが、最終的に軍港であると同時に、別荘の立ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備が容易な事から、ポーツマス市が選ばれた。講和内容は、以下の通りである。

  1. 日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
  2. 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  3. ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  4. ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
  5. ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  6. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

 この講和内容には、露国の賠償金支払い義務は無かった為、世界各国に対し「平和を愛するが故に成された英断」との印象を与える事に成功した。しかし、賠償金を取れない事をしった国民は、日比谷焼打事件を始めとする各地で暴動を起こした。

f:id:Alberuto0923:20210315162536p:plain

焼き打ちに遭った施設
日露戦争の年表

1904年

  • 2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
  • 2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
  • 2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
  • 2月9日 仁川沖海戦
  • 2月10日 相互宣戦布告
  • 2月11日 大本営を設置
  • 2月12日 清国が局外中立を宣言する
  • 2月23日 大韓帝国と日韓議定書を結ぶ
  • 2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
  • 3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
  • 4月1日 非常特別税法、煙草専売法を公布する
  • 4月8日 英仏協商が締結される
  • 5月1日 鴨緑江会戦
  • 5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
  • 6月15日 常陸丸事件
  • 6月20日 満州軍総司令部を設置する
  • 7月28日 ヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣、暗殺される
  • 8月10日 黄海海戦
  • 8月22日 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ
  • 8月14日 蔚山沖海戦
  • 8月19日 第一回旅順総攻撃
  • 8月30日 遼陽会戦
  • 10月9日 沙河会戦
  • 10月15日 バルチック艦隊出航
  • 11月26日 第二回旅順総攻撃
  • 12月5日 日本軍、旅順口203高地を占領
  • 12月31日 第三回旅順総攻撃

1905年

軍部の暴走

 1912年に明治天皇崩御された。

第一次世界大戦

対外政策

南進論

北進論

東進論

西進論

大東亜戦争終結

はじめに

f:id:Alberuto0923:20210206231310p:plain

ゲーム開始時点での各国の勢力図(尚、今後変わる可能性が有り)

"Greater East Asia Co-Prosperity Sphere"とは?

 "Greater East Asia Co-Prosperity Sphere"はHearts of Iron Ⅳの架空世界を描いたModになっております。端的に内容をご紹介すると、第二次世界大戦大日本帝国が率いる大東亜共栄圏が勝利し、逆にナチス・ドイツが率いる枢軸国が敗北した世界になっております。

他のModとの相違点は?

 他のModで、更に比較しやすい様に第二次世界大戦を描いたModを例として挙げると、日本とドイツ、イタリアの所謂”枢軸トリオ”が勝利した世界のThe New Order(通称:TNO)やThe Man in the High Castle等があると思います。これらのMod群は前述の通り、”枢軸トリオ”が勝利している、という共通点が存在しております。しかし、Greater East Asia Co-Prosperity Sphere(通称:GEACPS)では、ドイツとイタリアが敗北している点で前述のMod群とは大きな差があります。単純に”枢軸トリオ”の勝敗だけ見ると、Thousand Week Reich(通称:TWR)の対になる存在、とも言えるのかもしれません。

参加方法は?

 参加はこちらからお願い致します。

discord.gg